昭和59年卒
藤田 真敬
防衛医科大学校 防衛医学研究センター
異常環境衛生研究部門 教授
個性派との出会い
塾の先生に勧められるがまま入学した海城高校では、多くの個性派(奇人変人たち?(笑))との出会いが待っていました。
入学した頃は、身長が140cmくらいしかなく、入学式で先生が間違えて、中学校の方に連れていったほどでした。だから、僕からすると、身体が大きく精神年齢の高い同級生がたくさんいる感じがして、驚きながら、毎日みんなと話をしていました。1年生の頃から、俺は哲学者になるから京大の哲学科に行くんだと言って、むずかしい哲学者の話を一生懸命するヤツがいたり、東大の薬学部に行って新しい薬を作るんだ、運が良ければノーベル賞まで取るんだと言っているヤツがいたり。僕は、まだ何も考えていなかったので、こんな人たちがいるんだと、ただただビックリして聞いていました。彼らは必ずしも成績が良いわけではないのに世界征服みたいな夢を平気で語っていました。大学受験の際にはみんなで、「アイツは無理だろう」と言っていたんですけど、彼らは現役で目標校に合格しました。目標を持っている人と、何となく生きている人がいる中で、早い時期から目標や強い意志を持つことが大事だと気づかされましたね、大人になってからですが(笑)。
海城の先生方にも同じことが言えて。中学校の先生に比べて、変わった先生、というか桁違いに厳しい先生や面白い先生をはじめ、今まで見たことのなかったような人たちがたくさんいました。戦争帰りで義眼の先生は、背筋がピンと伸びてすごくかっこいい先生でした。きちんと授業を聞いていないと一喝。教室の雰囲気が一瞬で凍り付く迫力でした。一番印象に残っているのは、2、3年生の時の担任の先生ですね。生物の先生だったんですけど、「俺の生物学の価値観を教えてやる」と、面白い授業をされていました。いつも「やりたいことをきちっと見定めて、人生は生きていけばいいんだ」と言っている先生で。
いろんな価値観を持った人、意識の高い夢を持った人たちと早い時期に巡り会えたことによって、自分でこれからの成長を考えていく時に、知らず知らずのうちに目標としていたのかなという気がしますね。周りにそういう人がいなかったら、わからないまま一生を過ごすと思うんですけど、早い時期にこういう出会いを経験すると心の中に残っているものなんだなと思います。
クラスは50人くらいいて、部活をやっていたのは10人ほど。僕は何もやっていなかったので、放課後は友達とおしゃべりして、それから帰るという感じでしたけど、みんな好き勝手にやっていましたね。僕が熱中していたのは、短波ラジオ。当時、流行っていて、BCL(ブロードキャスティングリスナーズ)といって世界中の短波放送を聞けるものがあったんです。例えばアフリカやオーストラリアのラジオを聞いて、「○月○日にラジオの番組を聞きました」と手紙を送ると、その局から絵葉書が届くんです。それを何人かで集めていましたね。英語がわかるヤツは、いろいろな国からとても綺麗なカードをもらっていました。当時も英語が得意な帰国生が多くて、クラスに4、5人いたような気が。英語の授業中、先生に「違う」とか言っていたので、先生も扱いに困っていたようです(笑)。僕らも、英語は受験勉強でも大事だし、社会人になってからも必要だからNHKのラジオ英会話を毎日聞きなさいと言われて、一生懸命聞くだけは聞いていましたね。
飛行場育ち
父が航空自衛隊に勤めていたので、基地を点々としながら子どもの頃を過ごしました。大きな飛行場と空にはばたく飛行機を見ながら育ったこと、短波ラジオやラジカセの盛りの時期だったこともあり、大学は電子工学科や航空工学科といったところに進めたらかっこいいなぁ、なんて漠然と思っていました。でも、東大の理科一類にしか航空工学科がないと知ったのは、3年生になって受けた初めての模擬試験のとき。電子工学科も東大などの難関校にしかない。E判定ばかりが返ってきて、そのまま、仕方がないかと浪人しました。
今の海城高校は素晴らしい合格実績ですが、当時の現役合格者はクラス50人中10数人ほど。一浪は当たり前みたいな感じで、予備校には知っている顔がたくさんいて安心感がありました。お昼ご飯をみんなで食べたり。でも二浪が決まった時は、ちょっとつらかったですね。二浪目の時に、父が防衛医大の願書をもらってきたので受けてみたところ、合格。厳しい学校だと聞いていたので、みんなに「大丈夫なのか。落ちこぼれて辞めちゃうんじゃないか」と言われていたんですけど、入ってみたら結構楽しくて、いまだにいるという感じですけどね(笑)。
医学部のはずじゃなかったのに
航空工学や電子工学に憧れていたのに、医学部に入ってしまい、どうしたらいいんだろう。そんなことを考える間もなく過ごしていたんですけれども、防衛医大には日本で唯一、基礎医学講座の中に、医用電子工学という講座があったんです。教えてくださっていた理工学部出身の教官に「本当は理工学部に行きたかった」という話をしたら、動物実験や様々な研究を手伝う機会をいただきました。医学生の時から、データをまとめる練習や論文執筆、学会発表と、物をまとめて世の中に発表するという経験をさせていただいた結果、論文や学会発表の数が増え、今、ここで教授にしてもらっています。それで思い出したのが、高校の美術の先生の言葉。「心の中にあるだけじゃわからない。形にしなさい。デッサンにしたり、油絵にしたり。そこで初めて、みんなに見てもらえて、評価を受けられるんだ」。こういう言葉って繋がるんだなぁと実感しましたね。
大学卒業時は、指導官の先生に「藤田は赤ちゃんの時から航空自衛隊だから」と狭き門の航空自衛隊に入隊させてもらいました。航空自衛隊に入ると同期の中で3、4人は外国勤務を経験させてもらえます。僕は最初に、4カ月間、アメリカ・テキサス州で射撃訓練の医療支援に従事しました。その時に、アメリカの救急医療の素晴らしさを目の当たりにし、アメリカで学びたいと思い、後に、アメリカ空軍の航空医官課程にて、戦闘機パイロットや宇宙飛行士の身体検査の基準について10カ月間学びました。戦闘機パイロットと宇宙飛行士の身体検査基準は大変似ており、アメリカ軍が最初につくった基準なので世界中から学びに来ていましたね。
異業種と学ぶ
今は、航空医学という分野を勉強させてもらっています。航空医学の学会に所属している日本航空や全日空、JAXAのお医者さん方と、自衛隊の航空医学の専門家という形で一緒に勉強させてもらっていて、とても楽しいですね。JAXAの先生たちは宇宙飛行士についての医学を、日本航空や全日空の先生たちは民間航空のパイロットや乗客の病気の管理などを学ばれているので、産業医の勉強を広くできます。学生にも知識の還元ができます。また、今までこの領域は、英語の教科書しかなかったので、学会の先生たちと一緒に日本語の教科書も執筆しました。
防衛医大では、自衛隊に限らず、一般の人にも波及して役に立つ分野を研究することも推奨されています。例えば、災害派遣の時に、どうすれば、一番人が救えるか、避難所で不自由な生活を送られている方が少しでも健康的に生活できるか。そういったことにも取り組んでいます。
夢がつながる
海城高校では「人の役に立つ仕事を」「国のリーダーに」と言われていましたが、人の役に立てると喜ばれて自然と楽しいですし、学生に「藤田先生の授業、おもしろいですね」なんて言われるとさらにヤル気が出たりするので、やはり人の役に立つ、人を育てる仕事とは楽しいと感じています。高校生の頃はわからなかったのですが、自然とそんな風に考えて、早いうちから意識すると、いろいろと楽しい仕事が待っている、楽しい人生が待っているのかなという気がします。大きな夢を掲げて若いうちから過ごすことは、大事なことなんじゃないでしょうか。
海城生には、夢を大事に。また個性派(奇人変人?)のお友達を大事にしましょうと伝えたいですね(笑)。言い換えるならば、大きな夢を持った友達を一生大事にしましょうということ。同級生にしても、先生にしても、夢を持っている人たちと出会えるのは宝物だと思います。僕は二浪した時には失意のどん底というか。一浪目は同級生が大勢いたので全然平気だったんですけど、二浪目はおいてきぼりにされたと感じて、結構、鬱状態になったんですよね。でも今は、何だかんだで、飛行機の仕事にはつながっているし、受験の時に夢見た理工学部の先生方ともつながっています。同級生、恩師の先生方、いろんな方々とのご縁で、高校生時代の夢をつなげてもらっています。海城高校での仲間や恩師との切磋琢磨のおかげで、すごく楽しい良い人生を送らせてもらっているのかなと思っています。
藤田 真敬
防衛医科大学校 防衛医学研究センター
異常環境衛生研究部門 教授